
衰退の余白から生まれた「トビチ商店街」の現在地(長野県辰野町)
商店街の新たな概念と言われる、長野県辰野町のトビチ商店街。
駅前からのシャッター街が、挑戦する人々を引き寄せ、新しい魅力を持つエリアへと変わりつつあります。その過程で象徴的な役割を果たしたのが、一日限定の社会実験として話題を呼んだ‘トビチマーケット’でした。
商店街の衰退については、全国的な傾向として、モータリゼーションや郊外型商業の拡大が挙げられます。辰野町では、そのことに加え、1983年の中央本線の路線変更により、人流や商いの前提条件が大きく揺らぐという、地域特有の構造的な転換も重なりました。賑わいが失われ、商店街には‘余白’とも呼べる状況が広がりました。
その余白を可能性として捉え、少しずつ新しい動きをつくり出してきた人たちがいました。トビチ商店街は、そうした小さな実践の積み重ねの可視化とも言えます。
本稿では、辰野町の静かな変化が、どのような背景から育ち、新たな動きを引き寄せているのか、中心人物の1人である赤羽孝太さんのお話を通して、ひも解いていきます。
目次
1.中央本線から外れた町の40年
(1)辰野町の概要
長野県のほぼ中央、上伊那郡の最北端に位置する辰野町は、南アルプスと中央アルプスの山々に囲まれた伊那谷の北端に広がっており、中央には天竜川が流れています。面積は約169.2平方キロメトル、人口は約1万7千人です。
町の歴史は古く、縄文時代の遺構も見られるほか、江戸時代には中山道と交差する地域として栄えました。明治時代には製糸業が盛んとなり、その後光学·精密機器·航空などの産業が発達しました。「ホタルの名所」として全国的に有名で、6月のホタル祭りの際は、多くの観光客が訪れます。
町内には経ヶ岳をはじめとする標高1,000 メートル級の山々が連なり、四季折々の自然が広がります。気候は寒暖差が大きい内陸性気候で、夏は比較的涼しく、冬は氷点下の日が続く厳しい寒さに見舞われます。近年は人口減少と高齢化が進行していますが、天竜川流域の自然、文化、歴史を生かしたまちづくりが進められ、移住促進の取り組みも行われています。
(2)中央本線の路線変更がもたらしたもの
「僕が子供のころ、辰野駅前の商店街はとても栄えていました。シャッターが閉まったままの店なんて全然なかった。それが、進学を機に町を離れ、帰省するたびに、商店街の店が1件また1件と消えていくのを目の当たりにしました」。
赤羽さんは現在40代。かつてのまちの賑わいと後の衰退は、その人生にちょうど重なっています。
東京から長野県中南部を通り名古屋までを結ぶ中央本線。その岡谷~塩尻間は、明治時代に辰野経由の大八廻りルートとして開通しました。大きく南に迂回するこのルートが選ばれた背景には、当時の技術では岡谷と塩尻を直接つなぐトンネル建設が難しかったためと言われています。大八廻りルートの中間地点にある辰野は、中央本線の主要ターミナル駅として長く交通の要所であり、人流·物流の拠点として栄えました。
しかし、1983年に岡谷~塩尻間を直線に結ぶ塩嶺トンネルが完成し、みどり湖駅経由の中央本線(新線)が開通したことで状況が変わります。主要列車は大幅な時間短縮となる新線へとほぼ移行し、一方辰野経由の旧線は本線から支線へ格下げとなり、列車の運行頻度は大幅に減りました。
鉄道交通の要所だった辰野は、県内外から商売をしたい人が集まり、商店街の店の流動性も比較的高かったとのこと。しかし、衰退がはじまって商売をやめる人が増え、赤羽さんが辰野に戻った10年前の2016年頃には、商店街の組合はほぼ機能していない状態だったそうです。
「商店街の会合に挨拶で伺った際、『お前のところいつ閉める?』と話しているのを聞いて、衝撃を受けました」。
2.衰退が生んだ余白
ほどなくして商店街エリアの組合は姿を消しました。このことが、まちづくりの活動に着手しようとしていた赤羽さんの活動にも影響しました。新たな取り組みに対する周知が難しくなった半面、調整の壁は以前より低くなったと言います。
「組合があれば、報告をしておけば商店街エリア全体に情報共有してもらえました。でも、組合が無くなると、商工会等に報告をしても『聞いていない』という声が起こりやすいです。一方で、合意形成や調整に要する時間は少なくなりました」。
そして、商店街に並ぶ締め切ったシャッターの様子を、赤羽さんはマイナスとは捉えませんでした。
「店の両隣のシャッターが閉まっていて、真ん中の1件だけ開いていたら、目立ちませんか?実際よりずっと素敵な店に見えてきますよね。もし同じ店が、ショッピングモールのなかにあったら埋もれてしまうでしょう。『両隣が閉まっていてくれてありがとう』と考えることもできます」。
「廃れたものは、実はカッコよく見えたりします。『人間の想像力を借り立てるもの』なのです」。
「要は、目の前の状況をどう捉えるか、です。ポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるか。ネガティブな状況を、どう変換して捉えるかがポイントです」。
かつての秩序が薄れた商店街には、失われたものと同じだけ、新しい試みを受け入れる余地が生まれていました。衰退しきった環境そのものが、想像力と実験を受け止める余白となり、赤羽さんの新たな挑戦を後押しする士壌になったと言えます。
3.トビチ商店街の現在地
赤羽さんは、故郷に戻って3年後の2019年に、一大イベントを開催します。
トビチマーケットです。
‘商店街の10年後の1日を想像してみる’をコンセプトとして、JR辰野駅から800 メートルに及ぶ商店街に、県内外から53店舗が集まり、空き店舗や空き家を活用したマーケットを開催し、4000人超の人が訪れました。‘シャッターが全部開かなくていい、飛び飛びでいい’というトビチ商店街は、新しい商店街の概念として全国に知られることとなりました。
「実際、トビチマーケットはかなり刺激的なイベントだったと思います」。



トビチマーケットの様子(トビチ商店街「トビチmarketアーカイブ」より引用)
(参考)トビチマーケットについて トビチ商店街公式 別ウィンドウで開きます
(1)「ひたすら地味」なその後
刺激的だったイベントの、後の活動は「ひたすら地味だった」と、赤羽さんは振り返ります。
「トビチマーケットで‘10年後の1日’を共有できたのはとても大きかったです。でもそれで、いきなり花開くわけではない。誰かが動いてくれるわけではないので、自分たちでやるしかない」。
「トビチマーケット後の7年間でやってきたのは、不動産の仲介のようなものです。事業ができそうな高感度な候補者を探して、希望に沿うような場所を仲介して、プロデュースの仕方も一緒に考えて、ということの繰り返し。プレイングプロデューサー的な立ち位置が続きました」。
2022年、商店街内に複合店舗Equinox STOREがオープンしました。
旧·春日薬局だった建物の1階に、High-Five COFFEE STAND Tatsuno(カフェ)、Kaymakli(美容雑貨)、Soyogi(アパレル)の3店舗が入居しています。

Equinox STORE外観 
Soyogiの店主 伊藤萌袈さん
「Equinox STOREで、初めて目に見える成果ができた」と赤羽さんは言います。その後も取り組みを続け、7年間でトビチ商店街に新たに関わる事業者は、20を超えるほどに増えたそうです。
こうした地道な動きが積み重なる一方で、この1年ほど、赤羽さんが「これまでと変化の質が違う」と感じる出来事も生まれてきました。
(2)フェーズ2への移行
2月半ばの平日の昼間。すっきりとした冬空の日、辰野の商店街は静かで、人影はほぼありません。
「これが平常モードですね。週末でもあまり変わらないですよ」。
しかし、この1年ほどで、状況が少し変わりつつあると感じていると言います。
「辰野で開業したい、という問い合わせが来るようになりました。開業希望者から『物件はありませんか?』と電話が入るようになったのです」。
まちのプレイヤーになりそうな人の情報が自然と集まり始め、相談も毎年増えている感覚があるそうです。
「以前は完全に消費者側だった人が、自分のやりたいことを実現したいと動き始め、プレイヤーになるケースが増えてきています」。
赤羽さん自身の役割も少しずつ変わり始めています。
「これまで担っていた役割を、新しい人たちに任せられるようになってきました。僕らは、プレイングプロデューサーという立ち位置から離れ、別のことに取り組めるようになりました」。


2023年10月に開業したユーロ古着屋「十月十日」店主の原田歩実さん
さらに、変化は既存の商店主にも及んでいます。
「これまでは『新しく始める人・外から来た人』と『既存の人・スタイルを変えない人』という2極がはっきりしていました。でも最近は、既存の人の意識にも変化が見えてきて、まちのなかで人が入り混じる感じが出てきています」。


「居酒屋にいむら」を間借りしてランチ営業する「one-grain」
商店街でデートを楽しむ若いカップルを目にするなど、以前にはなかった光景も見え始めたそうです。
「少しずつ良い変化が積み重なっている実感があります。3年前には、この状況は想像できませんでした」。
こうした動きから、赤羽さんは「フェーズ(段階)が1段階上がった」と表現します。
非日常の賑わいを地味な日常につなげていく取り組みが、他の人にも広がり、ゆっくりと自走を始めつつある。その転換点に、トビチ商店街は今、差しかかっていると言えそうです。
4.完成形のないまちづくり
(1)「デザイン型」か、「アート型」か
以前は建築家だったという赤羽さん。
でも、赤羽さんのまちづくりには、明確な設計図はありません。
「全部答えが出ていると面白くない。完成形じゃないから面白いのです。完成していないから、訪れるたびに何かが変わっている。それが面白いという感覚です」。
都市計画や再開発では、将来像を描き、合意形成を行い、完成形を共有する手法が一般的です。しかし赤羽さんは、それ以外の方法もあると言います。
「まちの未来予想図を描くワークショップってありますよね。でも、描いたらもう完成したような気分になってしまうこともある。僕らは、それでは自分たちの未来は勝ち取れないと思った。だからトビチマーケットをやったのです。『百聞は一見に如かず』という思いでした。そして、予想を超える人が集まる結果になりました」。
「建築家は、素敵な完成図を描くのが仕事です。そして、好みやスタイルもあるから、なんとなく雰囲気やデザインテイストが似てきます。言い換えると、自分の想像の範囲内なのです」。
「数年したら陶芸家になりたいと思っている理由も、そこにあります。陶芸は、成形して火に入れ、窯から出てくるまで作品がどう仕上がるか分かりません。自分以外のもの——この場合は火——にゆだねるしかない。最後の瞬間まで完成形が分からない、その不確かさこそが面白いのです。」
赤羽さんは、この対比を「デザイン型」と「アート型」と表現します。
明確なデザインコードと、圧倒的な灯台のような指針があり、都市計画や合意形成を通じてビジョンを描き、設計図どおりに実現を目指していくのが「デザイン型」。
一方、多様な主体が自立して個々の目的をもち、有機的につながりながら成長するのが「アート型」です。
「トビチ商店街は『アート型』のまちづくりです。都市計画やビジョンに基づく『デザイン型』も、もちろん一つの正解です。でもトビチはあえて全体の統一を目指しません。個々の店が自立し、それぞれの色を持つことを重視しています」。
(2)動き続ける状態を作る
完成形を目指さない姿勢について、赤羽さんは、未完成である状態がよいと言っているわけではありません。動き続ける状態を維持するのがよい、と考えています。
「水が停滞したら腐るのと同じで、まちも流れ続けていることが大事なのです」。
動き続けることで、人材の流動を促して、新たなプレイヤーの参入が生まれやすい状況を保つこともできると言います。
赤羽さんは、自らの活動も変わっていくものと捉えています。「その時は、今やっていることのバトンを誰かに渡すのではなく、ただ『置いていく』のだと思います。やりたい人が、自分の意思でそのバトンを拾えばいい。全部拾わなくても構わないです」。
「バトンを置いたら、僕は次の新しいことができるのです」。
5.考察 — 構造的変化のなかで選択された方向性
トビチ商店街の動きは、衰退のなかで生まれた‘余白’(賑わいが失われ、既存の秩序や枠組みが薄れたことで、新しい挑戦を受け止めるための空間的・社会的なゆとり)をどのように活かすかという選択の積み重ねでした。
この背景を改めて整理すると、辰野町には、全国で一般的に語られる商店街衰退の構図とはやや異なる背景があります。
多くの都市では、モータリゼーションの進展や郊外型大型店の出店、商店主の高齢化などが複合的に作用し、中心市街地の機能が徐々に低下していきました。一方で辰野町の場合、そのことに加えて、1983年の塩嶺トンネル開通により中央本線の主要ルートから外れたことが、地域の人流・物流に大きな影響を及ぼしました。
交通構造の変化によって前提条件が変わったことは、地域経済にとって大きな転換点だったと考えられます。
そのような状況のなかで、トビチ商店街では、かつて交通拠点だった頃と同じような賑わいを取り戻す方向ではなく、‘飛び飛び’である状態を受け入れ、その余白を活かす方向を選択してきました。空き店舗を完全に解消することを目標に掲げるのではなく、新たに挑戦する人が入りやすい環境を整えることに重きを置いています。
衰退そのものが再生を生むわけではありません。全国には同様に空洞化した商店街が数多く存在します。重要なのは、変化をどのように捉え直し、どのような方向性を選び、誰が担い手となるかという点です。
現在のトビチ商店街は、劇的な賑わいを見せているわけではありません。平日は静かな時間が流れています。しかし「やめる人だけでなく、始める人がいる」という状態が生まれています。外部からの問い合わせが増え、既存商店主の意識にも変化が見られるという点は、小さな変化かもしれませんが、確かな兆しでもあります。
トビチ商店街は、物理的な商店街の範囲を越え、一定の考え方や関わり方を共有する‘概念’として受け止められています。個々人が自立し、それぞれのやりたいことに取り組みながら、ゆるやかにつながる。そのあり方に共鳴する人たちが集まり、‘トビチ’という名前が一つの象徴(ブランド)として機能している側面もあるのかもしれません。
もっとも、それは明確な設計図(ビジョン)に基づくものというより、実践の積み重ねのなかで徐々に形づくられてきたものと考えられます。
辰野町の事例は、構造的な変化を経験した地域が、自らの立ち位置を再定義しようとする過程の一例と言えます。今後どのような形に展開していくのか、流れが生まれ、続いているということに、今後も引き続き注目していきたいと思います。



